カイトは軍服が届いた翌日の火曜日、九月十七日から魔法や魔道士としての基本的な作法などをエルヴァから教わることに並行して、王宮病院で実際に治癒魔法を行使して患者の治療にあたっているケンゾーとともに、実際に治癒魔法による治療を経験しながら治癒魔法を習得することにした。 カイトから治癒魔法も早めに習得しておきたいという意向を聞いたエルヴァは「それはいいね」と二つ返事で了承した。 ケンゾーもカイトの申し出を喜んで快諾した。 叙任式典の前であることを考慮して、カイトは軍服ではなくフロックコートを着て王宮病院へ通うことにした。 王宮病院の医師や看護師といった関係者とその患者には、カイトに関する箝口令が敷かれた。 実際に治癒魔法を行使する治療に先立って、ケンゾーは王宮病院内にある書斎でカイトに治癒魔法についての説明を始めた。「治癒魔法は軽傷を治療するクラティオ、重傷を治療するクラティダ、致命傷すら治療できるクラティガの三つに分類してるけど、それは治療に必要となった魔力量の差でしかない。裂傷や骨折といった負傷箇所をトレースして完治するまでのイメージを浮かべ、魔力によって完治のイメージを患部へ伝えるという一連の流れは同じなんだよ」 意外に単純な分類だと感じたカイトは、それを隠さず口にした。「それぞれ別の魔法ってわけじゃないんですね……その魔力ってどれぐらい使うものなんですか?」「四属性魔法や無属性魔法で用いられる魔力の数値化に合わせるなら、一から三の魔力消費で済む時はクラティオ、四から七で済むのがクラティダ、八以上の消費を要する場合をクラティガと呼んでる。それぞれの呼び方を発声する詠唱は、意識を集中するための呼称でしかないんだ。致命傷では使う魔力が十二ぐらいに達する場合もあるね」「使った魔力は他の属性魔法と同じように、自然に回復するんですか?」「うん。仮に魔力を使い切ったとしても、約一日でほぼ戻るよ。魔力が自然回復する早さも魔道士によって差があるけどね」「魔力を回復するアイテムなんかは、この世界にはないんですよね?」 カイトの質問を聞いたケンゾーが驚きを示すように目を丸くしてみせる。「それは面白い発想だね。残念だけど、そんな便利なアイテムがあるって話は聞いたことがない。あれば便利なんだけどなあ……」「そうなると……戦場で治癒魔法を使う場合は、慎重に使
ケンゾーが治癒魔法による治療の拠点としている王宮内の病院に、カイトが通うようになってから一週間が経過した九月二十四日の昼過ぎ。 工事現場での事故によって重傷を負った患者の治療を、カイトが一人で滞りなく済ませる姿を見届けたケンゾーは、ふうと一息つく様子を見せるカイトに声をかけた。「少し、休憩しようか」 ケンゾーとカイトは連れ立ってケンゾーの書斎に入った。 カイトが王宮病院に訪れた際にはくっついて回るマヤの姿もあった。 治癒魔法の習得に励み、次々と患者を治療するカイトにマヤはすっかり懐いていた。 カイトが治療している間は邪魔にならないよう距離を置いて見ているマヤは、治療に区切りを付けてカイトが休憩する素振りを見せると駆け寄って、ぴったりとそばを離れようとはしなかった。「ダイキも早かったけど、カイトはそれ以上に慣れるのが早いね」「ありがとうございます。でも、おじいさんの教え方が分かりやすいおかげだと思います。体系がシンプルに立っていて理解しやすいですから」「まあ、他の属性とは違って治癒魔法は用途がそもそもシンプルだからね。俺はナーガから下賜されたものをなぞっているだけと言ったほうが近いよ」「下賜ってことは直接、治癒魔法の内容をドラゴンから聞いたってことですか?」「うーん、直接的、とでも言おうか……夢を介していたからね」「夢、ですか?」 カイトがオウム返しに「夢」を強調して訊くと、ケンゾーはゆったりとうなずいてみせた。「そうなんだ。俺がテルスに来てすぐ、三日が過ぎた夜の夢にナーガが現れた。白昼夢に似たその夢の中で、俺はナーガから治癒魔法についての一通りを教えられたんだ」「直に、現実で会ったことは無いんですか?」「ないよ。他の大陸にいるドラゴンに関しては定かじゃないけど、ミズガルズ王国でナーガに直接会ってるのはセルリアンだけだね。カイトは会ってみたいのかい? ナーガに直接」 ケンゾーの問い掛けに対して、思案する表情を浮かべたカイトは一呼吸置いてから答えた。「会って聞いてみたいことはあります。でも、今はまず目の前のこと、治癒魔法と無属性魔法の習得を優先します」「賢明な判断だな。本当に俺の孫としては出来過ぎだ」 ケンゾーが満足そうに微笑むと、静かに二人の会話に入るタイミングを探っていたマヤが、白い陶器のコップに注いだ水をカイトに差し出し
聖暦一八八九年十月一日。 カイトが正式に魔道士として叙任するための「宣誓の儀式」が執り行われるレザレクション大聖堂の周囲には、晴天に恵まれたこともあり朝早くから多くの人々が詰めかけていた。 続々ときらびやかに装飾された二頭立ての四輪馬車が、レザレクション大聖堂の正面に広がる大きな広場の奥に位置する車寄せへと乗り入れた。 ミズガルズ王国の筆頭魔道士団であるトワゾンドール魔道士団に属する魔道士たちが、豪奢な馬車から降り立つ度に群衆から歓声が上がった。「レビン卿とステラ卿のお二人だ!」「いやあ、拝見する度に美しさが増しておられるねえ……」 レビンとステラが馬車から降りると、男性たちの視線は瑞々しい魅力を放つ二人の女性魔道士へと吸い寄せられた。 百七十二センチと女性としては長身であるレビンの、意志の強さを表わすように輝く黒い瞳が群衆に向けられると男たちがざわめき立った。 濡れ羽色のストレートで長い髪が、すらりと伸びた手足を包む純白の軍服と相まって端整な美しさを放つレビンの姿は、十八歳にして魔道士の威厳すら併せ持っていた。 レビンの横に立つステラも百六十五センチと女性としては高めの身長で、亜麻色の髪をショートボブにしている。 理知的な印象を与える銀縁の眼鏡の奥の瞳は琥珀色で、落ち着いた微笑を浮かべてみせる二十歳だった。 軍服を着ていても男たちの目を引く大きく張り出した胸のふくらみと見事なヒップラインが、肉感的な魅力でもって男を魅了していることもステラは自覚していた。 レビンとステラは余裕の笑みを浮かべながら、群衆の歓声に応じて軽く挙げた手を振りながら大聖堂へと入っていった。「あっ! アルテッツァ卿とセリカ卿のお出ましよ!」「ああ、もう……なんて見目麗しいの……」 アルテッツァとセリカが馬車から降りると、打って変わって女性たちの注目が眉目秀麗を絵に描いたような二人の男性魔道士に集まった。 艶めく金髪に翠玉の如き碧眼、鼻梁がすらっと通った欠点の見当たらない美丈夫である二十四歳のアルテッツァと、光沢を含んだ微かに淡い金髪に力強い眼光を放つ碧眼を有する二十二歳のセリカが並んで歩く姿は、女性たちの熱い視線を強く惹き付けた。 百八十七センチのアルテッツァと百九十センチのセリカが身に纏うと、トワゾンドール魔道士団の威光を示す純白の軍服は秋の澄んだ空気の
カイトが群衆の歓声を背に受けながら普段は閉ざされている正面中央扉口からレザレクション大聖堂の中へ入ると、身廊の入り口付近で待っていたノンノがカイトに向かって軽く右手を挙げてみせた。 屈託のない明るい笑みを浮かべるノンノの隣には、穏やかに微笑むピリカの姿もあった。 カイトがノンノの合図に応じて近付くと、ノンノはトーンが高く軽い印象を持った声で名乗った。「あたしは、ノンノ。あなたがカイト卿なんだね」 ノンノはニカッと歯を見せる笑みを浮かべながら、カイトへ右手を差し出した。「はじめまして。ノンノ卿。カイトです」 握手に応じたカイトは小柄なノンノの右手が想像よりもさらに一回りは小さいことに驚いたが、それを顔には出さないように努めた。「あたしのことは、ノンノって呼び捨てでいいよ。敬語もいらない」 ノンノが持つ愛らしい雰囲気と裏を感じさせない口振りに触れ、すぐに好感を抱いたカイトは素直に応じた。「……分かった。ノンノ、これからよろしくね」「うん!」 ノンノは明るい笑みを浮かべたまま、コクリと大きくうなずいた。「ピリカと申します」 ノンノの隣に立つピリカが、カイトに向けて深々と頭を下げる。 フランクで距離の近いノンノとは対照的に、耳にやさしく届くハスキーボイスで名乗ったピリカは落ち着いた物腰だった。 ぷっと吹き出したノンノが、告げ口する口調でカイトにピリカを紹介した。「ピリカはマジメなふりが上手いけど、エッチなことにはすっごい積極的だから気をつけてね」「ノンノ! 初対面の、それも首席魔道士になるカイト卿の前で、なに言ってるの!」 ピリカが慌ててノンノをたしなめるが、ノンノは全く悪びれる様子もなかった。「そんなのどうせ、すぐにばれるんだから、早いほうがいいじゃん」 ノンノとピリカのやり取りを微笑ましいと感じたカイトは「もう少し見ていたい」とも思ったが、これから叙任の儀式と宣誓が始まるというタイミングの今は、ピリカに助け船を出して会話を抑えておこうと判断した。「えっと……はじめまして、ピリカ卿。カイトです。よろしくお願いします」 カイトが右手を差し出すと、ピリカは微笑みを返して握手に応じた。 ノンノよりもわずかに背が高いほどで小柄なピリカの手は、小さくはあったがカイトにとっては「しなやかな手」という印象の方が強かった。 先に身廊
レザレクション大聖堂で執り行われたカイトの叙任式典が滞りなく済んだ後、カイトを初めとする式典の参列者たちは祝宴の会場となるブレビス離宮へと移動した。 ブレビス離宮はミズガルズ王国の王太子が代々東宮としていた宮殿を、現在の女王セルリアンの先代に当たるプラド国王が男子を残すことなく崩御したことで迎賓館として利用されるようになった宮殿で、レザレクション大聖堂から馬車で十数分の位置にあった。 ブレビス離宮の周囲には魔道士ではない一般の兵士が警備のために配置され、王太子の宮城として設計された離宮の周辺には人々が集まれるような広場などは無いこともあって一帯は静かな空気に包まれていた。 祝宴の参列者は主賓であるカイト。トワゾンドール魔道士団のメンバーで式典に参列した六名と、顧問であるエルヴァ。女王セルリアンとその王配ケンゾー。王太子タンドラとその妃であるディアナ。宰相セルシオと枢密院議長マジェスタを始めとするミズガルズ王国の首脳陣。御三家と呼ばれるジウジアーロ家、ファリーナ家、ガンディーニ家を始めとする一部の有力貴族……という少数に限られていた。 祝宴は正式な午餐会ではなく、立食形式がとられた。 数百人を収容できる規模の会場となった「羽衣の間」には奥に大きなステージが設置され、数十の円卓が並んでいた。円卓には彩り鮮やかな料理が並べられ、それぞれの円卓を担当する数十人のウエイターが配置についていた。 セルリアンとケンゾー、そして主賓のカイトがステージへと上がり、カイトの魔道士叙任と筆頭魔道士団の首席魔道士への就任を祝う祝宴は始まった。 乾杯に先立ち、セルリアンが短くスピーチした。「カイト卿の加入によって、戦地において我が国を代表する筆頭魔道士団、トワゾンドール魔道士団の首席魔道士が不在という事態が解消されました。これはミズガルズ王国にとって、この上なく喜ばしいことです。昨今のテルスは予断を許さない情勢が続いています。カイト卿はミズガルズの地にもたらされた光明。その希望を祝うことができる今宵の席を、わたくしは忘れることが無いでしょう。本日は形式ばった午餐会ではありません。参列の皆には本日、この宴を存分に楽しんでもらいたく思います」 参列者全員がシャンパンの注がれたグラスを持ち、乾杯の挨拶はセルシオが行った。「女王陛下、ご列席の皆様。本日ここにカイト卿の叙任と首
アルテッツァとセリカの二人と初めての会話を交わすカイトとの間に流れる空気が、打ち解けたものとなったタイミングを見計らうようにトワゾンドール魔道士団の第十席次を示すマントを纏うノンノと、同じく第十一席次を示すマントを纏うピリカが三人へと近寄った。「カイト卿への挨拶は済んだ?」 ノンノはフランクに親しさを含んだ調子でアルテッツァへ問い掛けた。「ああ、つつがなく済んだよ」 アルテッツァが輝く笑顔を向けて答えると、向けられた笑顔に反応してノンノは返した。「相も変わらず、女を惹き付ける笑顔なんだから。もったいないよね、まったくもう」 小柄なノンノが長身のアルテッツァを見上げるようにして言うと、アルテッツァは対応に慣れた様子で微苦笑を浮かべてみせた。「もったいない?」 カイトが小首を傾げながらノンノの言葉に疑問を向けると、ノンノは平然とその理由を言ってのけた。「これだけの美形で性格も良くて、おまけに家柄も能力に見合った地位も揃ってるってのに、女には興味がないんだよ。アルテッツァもセリカもね」 ノンノがサラッと口にした意外な理由に対して思わず「え?」と声を漏らしたカイトに、アルテッツァは微笑を浮かべながら説明を加えた。「私のパートナーは、公私ともにセリカなんです」「そうなんですか。信頼できるパートナーといつも一緒にいられるって素敵ですね」 カイトは穏やかな笑みを浮かべるアルテッツァにつられるように、微笑みを返しながら感想を口にした。「ありがとうございます。私の時間はセリカがいてくれるおかげで充足しています」 アルテッツァが輝く笑顔をみせながら答える。 ノンノが展開を次へ進める合図代わりにピョンと跳ねて、カイトの前に着地する。「カイト卿は、女性はお好き?」「うん……好きだよ」「お、素直でいいね。ピリカ、チャンスだよ!」 ニカッと笑ったノンノが振り返ってピリカに視線を送る。 ピリカが「ノンノ!」とたしなめる声を上げるのに合わせて、カイトが「でもね」とノンノに声をかけた。 声に反応したノンノが振り返ると、カイトは微苦笑を浮かべながら自分の性格を打ち明けた。「俺は女性に対して積極的なタイプじゃないんだ」「そうなの? もったいないなあ。選り取り見取りの立場なのに」 会話の中心にいるノンノの耳に「ノンノ卿……!」というレビンの落ち着いてい
産業革命と呼ばれる工業化による生産性の拡大によって圧倒的な経済力と軍事力を握った西欧列強の強い影響力が世界中に及んだ地球の十九世紀と同様に、激動の時代にある聖暦一八八九年の異世界テルス。 西欧列強による植民地争奪が激化する中で、日本と同じく世界最大の大陸の極東に位置するミズガルズ王国が独立国家として在り続けるための軍事力そのものであり、国家の威信を示す象徴的存在でもある筆頭魔道士団の長となる首席魔道士に就任したカイトの生活は、十月一日の叙任式典から一変……はしなかった。 筆頭魔道士団の第一の席次を表す場合にだけ用いられ、国家の君主や元首に次ぐ特殊な立場となる首席魔道士に就任したカイトだったが、エルヴァから無属性魔法や魔道士としての作法などを教わり、王宮内の病院へ週に四日ほど通ってケンゾーから治癒魔法について教わるという勉強が中心の生活が十月十八日まで続いた。 カイトの異世界での生活を一変させる一通の書簡を携える宰相セルシオが、エルヴァの屋敷を訪れたのは十月十八日の昼過ぎのことだった。 「ウァティカヌス聖皇国の聖皇フィデス陛下からのカイト卿へと宛てられた招聘状です。つきましては、カイト卿には急となってしまい申し訳ありませんが、明後日、聖皇国に向けて出立していただきたく、お願いする次第です」 エルヴァの屋敷を訪れたセルシオは応接間へと通されるや、ソファに挟まれるように置かれたローテーブルの上に聖皇フィデスからの招聘状だという革の書套に包まれた書簡を載せてから口を開いた。 カイトは「失礼します」と断ってから革の書套に包まれた書簡を開いて内容を確認した。 招聘状の宛て名は「ミズガルズ王国、トワゾンドール魔道士団、首席魔道士カイト卿」とある。 テルスという異世界に来てからというもの、すでに慣れ親しんだ感のあるアリシア文字で書かれた書簡の文面に目を通したカイトは、書簡をローテーブルの上へ静かに戻した。 カイトはテルスで広く用いられ地球でのアルファベットのようにほぼ共通文字となっているアリシア文字が読めるだけではなく、言語も地球での英語のように半ば共通語となっているエッドア語を日本語として理解できた。 言語の習得を必要としない不思議すら考える余裕もなく、カイトは異世界での生活に順応していた。「位階の叙位と、称号の授与だね」 同席していたエルヴァは普段
翌十月十九日の早朝。 王都プログレの目抜き通りから一本中に入った出版関連の会社が集まるエリアに、ミズガルズ王国内では名の通った新聞社が社屋を構えていた。 何人かの夜討ち朝駆けで鳴らす記者たちが、記事を書いたり仮眠したりと各々我関せずといった様子で仕事をこなす早朝の新聞社の社屋で、屋上に設置された伝書鳩の鳩舎にも一人の小太りな男性記者の姿があった。 スクープに定評のある新聞社の中でも辣腕ぶりで知られた小太りな記者は、セナート帝国の諜報活動を掌握する筆頭魔道士団の第六席次シルビアと繋がるスパイでもあった。 慣れた手つきで伝書鳩の脚に通信文を入れた小さな筒を取り付けた小太りな記者は、何の気負いもなく日常の業務として伝書鳩を飛ばした。 伝書鳩の行き先はセナート帝国の極東に位置するヴォストークであり、伝書鳩をリレーしてセナート帝国の帝都マスクヴァとの通信文をやり取りする情報網は構築されてから既に十年余の運用に耐えていた。 翌十月二十日の晴天に恵まれたプログレの港では、大型の客船が出航の準備を整えていた。 秋晴れに映える真新しい純白の軍服も眩しいカイトと、就任したばかりの首席魔道士に護衛として同行するセリカとステラは連れ立って、正午の出航に合わせて客船に乗り込もうとしていた。「いやあ、実に気持ちのいい天気だ。旅立ちにこれ以上のはなむけも無いな」 青く澄み渡った秋空を見上げたセリカが感嘆も漏らすと、ステラは旅立つ三人の前に広がる海原へ目をやって相づちを返した。「ええ、波も穏やかで本当に出航日和ね」 セリカとステラの気心の知れた様子に触れたカイトは立ち止まると、セリカとステラに向かって頭を下げた。「俺にとって初めての船旅、そしてこの世界だけじゃなく元の世界でも経験しなかった、初めての海外です。正直に言っちゃうと緊張してるし、首席魔道士なんて呼ばれててもまだまだこの世界のことを知りません。お二人を頼りにしちゃうと思います。よろしくお願いします」 いきなり頭を下げて懇願を口にするカイトに対して、セリカはわずかに慌てた様子をみせた。「カイト卿……! お気持ちは分かりましたので、まずは頭を上げてください」 一方でカイトが胸のうちを素直に明かしてしまう様子に接したステラは、くすりと笑ってみせた。「カイト卿。首席魔道士である卿はわたしたちをまとめ上げ、そして
マイラントへ通ずる街道から市街地へと入る境に関所のように設置された番所から、アクーラの声に驚き慌てている様を露骨に素振りで表す四人の男が飛び出した。 他の三人が揃いの作業着にも見える制服を着ている中で、唯一ビタリ王国の一般の軍隊に所属する下士官へ支給される軍服を着た男は急ぐ様子を見せながらも、番所に繋がれている馬に跨がり街へと入っていった。 数分後、馬を駆る二人の魔道士が番所に到着した。 馬から降りたトリアイナ魔道士団の軍服を纏う二人の男性魔道士の、深紅の地に銀糸で刺繍された三叉槍のエンブレムの下に標された数字は、ⅡとⅨ。「おっ……やっと、お出ましですかあ」 筆頭魔道士団の席次を持つ執行の対象が到着したことを、目視で確認したアクーラがにやりと余裕の笑みを浮かべる。 次席を示すⅡのナンバリングを背負うの男は、アクーラへ向かって真っ直ぐに歩を進めながら口を開いた。「トリアイナ魔道士団のゾンダ・ファンジオである! ブリタンニアが何用か!」 ゾンダは覇気に満ちる四十五歳で、後ろに結わえた長い赤髪が歴戦の自負に彩りを添えていた。「卿らを率いたウアイラ卿の王位簒奪を、聖皇陛下は断罪なされた! 我らの首席魔道士たるヴァルキュリャ卿が聖皇陛下の意思を代行する刑の執行人として指名された!」 アクーラが自分に向かって躊躇なく足を進めるゾンダを見据えながら口上を述べる。 口上を聞いたゾンダは表情を動かすことなく、アクーラの手前五メートルほどの位置でピタリと立ち止まった。 第九席次の男もゾンダに付き従うように後ろで立ち止まる。「そうか……私の相手は、最強の魔道士団となったか……」 微かに眉根を寄せて事態の把握を伝えるように静かな口調で応じたゾンダに対し、アクーラが問い掛ける。「降伏なされるか?」 ゾンダへ向けたアクーラの問いに答えたのは、第九席次の男だった。「降伏などするわけないだろ!」 若い血気を抑える様子もなく感情のままに言葉とした第九席次の男を、ゾンダはすぐさまたしなめた。「控えよ、カリフ卿」「ですがゾンダ卿……!」「控えよ」 カリフはアクーラに対する敵意を剥き出しにしながらも、ゾンダの言葉に従って口をつぐんだ。 アクーラに対してわずかに頭を下げたゾンダが、返答する落ち着いたバリトンの声に悔恨の音を含ませる。「筆頭魔道士団に席を置く
フエルシナへ赴いたインテンサの一行が圧倒的な力量差をもって、聖皇の意思を代行する刑の執行人としての任を完遂した頃、ヴァルキュリャの一行も目的地であるマイラントに到着しようとしていた。 ビタリ王国で第四の都市であるマイラント。 天然の良港を持つマイラントは、海路と陸路を繋ぐ交通の要衝として古くから発展してきた街だった。 ガリア共和国に近いこともあり多様な芸術を育んできた街としても知られるマイラントの、手前一キロメートルほどの地点で二輛の幌馬車が停まった。 真っ先に馬車から降りたのは、刑の執行人として聖皇から指名を受けた首席魔道士ヴァルキュリャだった。 続いて同じ馬車から、長い金髪を三つ編みにした小柄な女性が静かに降りる。 小柄な女性はヴァルキュリャと同じ漆黒の地に山吹色で縁取りがなされたメーソンリー魔道士団の軍服を着ていた。同色のマントには山吹色の糸で刺繍されたメーソンリー魔道士団のシンボルであるコンパスのエンブレム。そのコンパスの下にはⅥの数字が標されている。「大丈夫? エリーゼ卿」 心配を隠さず顔に出したヴァルキュリャが、筆頭魔道士団としては異例の二十六名からなる「世界で最大にして最強の魔道士団」と称されるメーソンリー魔道士団で第六席次を担うエリーゼに声をかける。「大丈夫です。メーソンリーの魔道士が乗り物に弱いなんて情けないですよね」「そんなことないよ。なんだかゴメンね」「どうしてヴァルキュリャ卿が謝るんですか」 エリーゼはくすりと笑ってみせた。 セナート帝国が最大の大陸を掌握する覇権国家となった今も、陸よりも遙かに広い海洋を押さえる覇権国家として在り続けるブリタンニア連合王国の筆頭魔道士団として、席次の決定にも政治が絡んでくるメーソンリー魔道士団の首席魔道士となったヴァルキュリャ。 十七歳の若さで首席魔道士となったヴァルキュリャの「できるだけ近い席次に就いて欲しい」という希望を聞き入れ、本来であれば望んでいない政治的な策謀が渦巻く席次争いに身を投じ、魔教士としては最高位となる第六席次に就いたエリーゼはヴァルキュリャにとって大切な存在だった。「いやさあ……こんな任務に付き合わせちゃってるから、ね」「そう、任務です。だから謝らないでください」 やわらかく微笑むエリーゼに対して「……うん。そうだね」とヴァルキュリャはうなずきながら
インテンサの指令を遂行したクワトロが、速攻でボーラを処理した現場へと駆け付けたイオタは亡き骸となったボーラを見るや怒りを露わにした。「あいつらか……!」 犬歯を剥き出しにして怒りを沸騰させるイオタが、五百メートルほど離れた街道に仁王立ちするアイギス魔道士団の四人を睨み付ける。「へ、へい……そうです。やつらが、ボーラ様を……」 ボーラとクワトロの戦闘を目撃した番人が、止まない恐怖で震える声のままイオタに答えた。 イオタは臨界に達した怒りを爆発させた。「いい女を殺す奴に生きてる価値はねえ! 皆殺しだっ! ムスペル!!」 イオタはその場で怒号とともに召喚獣の名を詠唱した。 直径十メートルほどの巨大な紅く光る魔法陣が、イオタの咆哮じみた召喚に応じて前方に現れる。 魔法陣から体高十五メートルにも及ぶ巨人ムスペルが現出する。 赤黒い肌を露にした裸体のムスペルは、はち切れんばかりに筋肉を隆起させていた。 ムスペルの全身は自ら発する炎で覆われている。 正しく「炎の巨人」そのものであるムスペルの威容を前にした番人は、腰を抜かしてその場にへたり込んだ。 ムスペルを見据えたインテンサは、感情を起伏させることなく一歩前に足を進めた。「聖皇国の情報は確かだったようだ。あの風体でムスペルを召喚できるならイオタで間違いないだろう。冥土へのせめてもの手向けに、格の違いというものを最期に見せてやるとしよう……ミドガルズオルム!」 インテンサが土の属性に於いて最上位とされる召喚竜の名を詠唱する。 直径二十メートルほどの巨大な緑色に発光する魔法陣が、インテンサの詠唱に呼応して浮かび上がる。 魔法陣から二百メートルを優に超える体長を有する大蛇が、その威容を現出させる。 灰褐色の鎧の如き鱗に覆われたミドガルズオルムは、ムスペルを見下すように鎌首をもたげた。 あまりに巨大な異形の召喚竜を目にしてしまった番人は、自分が失禁していることにさえ気付けずただ放心した。「ちっ……!」 ミドガルズオルムを召喚する魔道士が相手と知ったイオタは、舌打ちとともに思考を取り戻した。 各々の属性で最上位とされる召喚竜であるテュポーエウスやヴリトラと並び称されるミドガルズオルムを実際に目の当たりにするのは、筆頭魔道士団でエースナンバーを背負うイオタにとっても初めてのことだった。「くそ
番所から深紅の軍服を着た女性が出てくるのを目視で確認したインテンサは、感情を乗せない静かな口調でクワトロに声をかけた。「聖皇国の情報は確かなようだ。ボーラで間違いないだろう。イオタが到着する前に済ませるとしよう。この戦闘は聖下の下された断罪を代行する刑の執行であり、戦場の儀礼は無視して構わん。卿の得意とする速攻で片付けてしまって何ら問題は無い」 インテンサの指示に「御意」とだけ短く応えたクワトロは、続く呼吸で魔法の詠唱を済ませた。「クッレレ・ウェンティー!」 速さで優位に立つのが定石である気の属性魔法を行使するクワトロが、風の力を利用して加速する初手の定番であるクッレレ・ウェンティーを用いて高速で駆け出す。 前傾で駆けた姿勢のままクワトロは召喚魔法を行使した。「ウムダブルチュ!」 クワトロが召喚獣の名を詠唱する。二つの魔法を同時に行使するという高等技術を難無く行ってみせるクワトロに呼応するように、ライオンの体に鷲の頭と翼を持った召喚獣が、金色に輝く魔法陣から現出する。 体長が四メートルに達するウムダブルチュは、堂々たる巨躯を誇示するように咆哮を上げた。「いいねえ、強引な男は嫌いじゃないよ」 不敵な笑みを浮かべたボーラは、その場で召喚魔法を行使した。「ラクタパクシャ!」 ボーラが詠唱した召喚獣の名に呼応して現れた紅く光る魔法陣から、人間の胴体に鷲の頭と翼を持つ召喚獣が現れる。その体長は二メートルほどだが、羽ばたく翼の翼長は四メートルにも届かんとする大きさを誇った。 全身から炎を発するラクタパクシャが、紅蓮の翼を強く羽ばたかせる。 ラクタパクシャの羽ばたきは数十本の炎の矢を空中に作り出した。 流れるような動作で、ラクタパクシャが紅蓮の翼を力強く前へと突き出す。 数十本の炎の矢が、一斉にウムダブルチュへと襲いかかる。 ウムダブルチュは素速く上空に舞い、炎の矢を全て躱してみせた。 上空から高速で急降下したウムダブルチュが、ラクタパクシャに体当たりを喰らわす。 その圧倒的な質量差によってラクタパクシャは吹き飛ばされた。「くそっ」 ボーラがウムダブルチュに向けて両手を突き出し、援護射撃となる魔法を詠唱しようとした、その刹那。眼前には既にクワトロの姿があった。「グラディウス・ウェンティー!」 クワトロの素速い詠唱と同時に長剣の如き
「それでは、各々任務を完遂した後に合流するということで。私はこれで失礼を」 英魔範士である自分よりも上位の称号を持つ世界で三人しか存在しない内の一人だとしても、圧倒的な最強として君臨する太聖エルヴァや覇権国家を築くに至った皇帝シーマとは違い、現時点では何らの功績を挙げた訳でもない未知数のカイトと、最も警戒すべき存在として認識している自分以外の英魔範士であるヴァルキュリャ。 この二人と馴れ合う必要はなく、下手に関係を築くことは避けるべきだと判断しているインテンサは、静かに退席の意思を口にしてから立ち上がると真っ先に円卓を離れて退室した。「では、俺も……」 インテンサにつられて立ち上がったカイトに、ヴァルキュリャが声をかけた。「カイト卿。卿は今回が初めての実戦ですよね」「あ、はい。そうです」「卿は無属性魔法を行使する太魔範士にして聖魔道士、圧倒的な強者です。ですが、初陣には魔物が潜んでいます。命を奪うという行為に躊躇すれば魔物は容赦なく襲いかかってきます。覚悟は今のうちに固めておいてください」 命を奪う。ヴァルキュリャが明言した強い言葉に、表情を引き締めたカイトは首肯を返した。「分かりました。そうします」 カイトの素直な返答を聞いたヴァルキュリャは表情を緩め、穏やかな笑みを浮かべてみせた。 セナート帝国が勢力を拡大する中で徹底的な実力主義をもって猛者を集結させたラブリュス魔道士団が存在する今も、最強の魔道士団と称され続けるメーソンリー魔道士団の首席魔道士が浮かべる可憐な笑みに接したカイトは赤面した。 「それにしても、思ったより早い再会でしたね。この任務が終わったら、また二人でお酒でも」「はい、ぜひ」 ヴァルキュリャの誘いに対し、カイトは嬉しさを隠さずに二つ返事で応じた。 翌日の朝にはインテンサが率いるアイギス魔道士団の四名と、ヴァルキュリャが率いるメーソンリー魔道士団の四名が聖皇国の用意した幌馬車に乗り込み、それぞれの目的地へ向けて出立した。 さらに日付を跨ぎ月の変わった二月一日の朝には、最も目的地に近いカイトらトワゾンドール魔道士団の四名も、聖皇国が用意した二台の幌馬車に分乗してメディオラヌムへ向けて出立した。 同日の昼前。 数千年の歴史を刻む古都であり観光地として知られる、ビタリ王国で第三の都市であるフエルシナの空は今にも雨を
カイトが筆頭魔道士団に属する魔道士三名とともにウァティカヌス聖皇国に到着したことで、聖皇フィデスが指名した三名の執行人が揃ったことを受け、翌日の昼過ぎには最初の協議が持たれた。 聖皇の宮殿内で行われた協議には各国の首席魔道士であるヴァルキュリャとインテンサ、そしてカイトが参加し、ウァティカヌス聖皇国の筆頭魔道士団・ロザリオ魔道士団で次席を務めるクーリアが、司会を兼ねたオブザーバーとして協議を進行した。 現状の確認から入るクーリアの穏やかだが通る声で、三カ国を代表する首席魔道士が顔を合わせる協議は始まった。「まずビタリ王国の現況からですが……首席魔道士であったウアイラが率いるトリアイナ魔道士団は、十二月三十一日に王都ロームルスでクーデターを起こし、国王とともにソフィア王女殿下を除く王族を殺害。その翌々日にはウアイラが国王に即位したことを国内外に宣言。王位の簒奪に際し、ウアイラに抵抗する姿勢をみせたビタリ国内の貴族は少なく、現在までに南部の一部を除くビタリ王国の領土はほぼトリアイナ魔道士団が掌握する形となっています」 クーリアの現状の説明を受けて、ヴァルキュリャとインテンサは現在の状況をすでに把握していると判断したカイトは最初の質問を口にした。「トリアイナ魔道士団に属する魔道士たちの配置はどうなっていますか?」 カイトに向けて首肯を返したクーリアが答える。「ゲルマニア帝国との国境に近いフエルシナには第三席次のイオタと第十一席次のボーラ。ガリア共和国との国境に近いマイラントには次席のゾンダと第九席次のカリフ。そして、聖皇国に近いメディオラヌムに第五席次のジュリエッタと第七席次のデルタ。ウアイラを始めとする他の魔道士は王都ロームルスに留まっているようです」 地中海に突き出た半島が領土の大半を占める、地球のイタリアに酷似したビタリ王国の地図をカイトは思い浮かべた。 大陸側の国境をゲルマニア帝国、ガリア共和国、ロムニア王国の三国と接しており、ウァティカヌス聖皇国を内包する領土を持つビタリ王国にあって、周辺の各国への警戒を顕示するなら妥当な配置なんだろうとカイトは思った。 ロムニア王国には魔教士以上の魔道士が不在な上に、停戦協定が結ばれたとはいえセナート帝国への警戒を解けない現状では、ビタリ王国に対して何かしらの行動を起こす余裕はないものとして協議には上が
翌日の昼前。肌を冷やす淋しさをいっとき忘れさせてくれるような心地好い日差しがそそぐプログレの港には、聖皇からの指名を受けて刑の執行人として出立しようとするカイトたちの姿があった。 聖皇の使者としてミズガルズ王国を訪れたヴェネーノは、カイトたちより先に汽船への乗船を済ませていた。 ビタリ王国の王位を簒奪したウアイラと、クーデターの主体となったトリアイナ魔道士団への断罪を裁定した聖皇の意思を代行する執行人という特異な任務に当たる渡航とあって、カイトら四人の出立を見送るのはレビンとステラ、そしてノンノの三人のみだった。 少数とはいえ筆頭魔道士団の威を示す純白の軍服を身に纏う魔道士たちの存在は充分に目立っており、七人を遠巻きにする港で働く人々の注目を集めていた。「さくっと終わらせて還ってくるんだよ」 ノンノがいつもの調子で声をかけると、カイトは調子を合わせるように軽い調子で応じた。「うん。そうするよ」「ピリカをお願いね」 ノンノが浮かべる快活な笑みに、わずかな心配の色が差すのを見たカイトは大きくうなずいてみせた。「分かった。必ず無事に、一緒に還ってくるから」「うん。任せた」 カイトに向けて明るい笑顔をみせるノンノの横で、真剣な表情を崩さないレビンにアルテッツァが声をかけた。「王都を頼むよ」「お任せください。旅の無事とご武運を祈っております」「ああ、武勲を立てて王都に戻るとしよう」「はい。凱旋の日を楽しみにしております」 微笑を浮かべて壮行を口にするレビンへ向けて、アルテッツァは力強い首肯を返した。 カイトに随行するアルテッツァ、セリカ、ピリカの三人と、ヴェネーノを乗せた汽船は予定通りに正午の鐘を合図に出航した。 汽船は最短の航路でウァティカヌス聖皇国を目指し、十一日後の一月二十九日には聖皇国のスペツィア港へと到着する予定となっていた。 カイトにとっては初陣の地となるであろうビタリ王国へと続く旅立ちだったが、その不安や緊張を顔には出さないように努めた。 天候にも恵まれ穏やかな船旅となった十一日の間、四人はヴェネーノも交えてポーカーに興ずるなどして時間を潰す余裕を持った空気を共有した。 一月二十九日の昼過ぎには、予定の航程を全うした汽船がウァティカヌス聖皇国のスペツィア港に入港した。 ふたたび聖皇国の地を踏むこととなったカイトに、
ビタリ王国の首席魔道士ウアイラによる王位の簒奪を受け、これを断罪する裁定を下した聖皇フィデスの署名が入った正式な刑の執行人への指名を受理。刑の執行に当たっての渡航に同行する三名の人選と、渡航の方法と日程の決定。 重大な決断と実務の処理を矢継ぎ早に行ったカイトは、深夜の帰宅から短い眠りを経て翌日も朝から王宮に赴き、ミズガルズ王国の宰相であるセルシオとの事前の確認に併せて事後の方針に関する協議も済ませた。 「さすがにちょっとオーバーワークかな……」 思わずぼそっとつぶやいたカイトが屋敷へ帰る頃には、大陸からの厳しい寒気をなだめていた冬の陽もすでに傾き始めていた。 カイトが自室に戻ると、ストーリアが旅の支度を調えていた。 どの程度の滞在になるか期間のはっきりしない渡航の準備とあって、その荷物はなかなかの量にはなっている。「ただいま」 カイトが声をかけると、ストーリアは荷造りの手を止めて微笑みを返した。「おかえりなさいませ。お疲れでしょう。出立までは少しお考えにならない時間をお持ちください」 ストーリアが自然に言い添えた「考えない時間」という言葉にカイトは感心してしまった。 この異世界に来てから約四ヶ月。首席魔道士という国防を担う元帥、あるいは象徴的存在としての大元帥とも謂えてしまう立場に就いてからの約三ヶ月。未だに慣れない政治的な判断や決断を強いられてきたカイトが、いま最も欲しているのは思考から解放される時間だった。 いまの自分を一番よく分かってくれているのは、異世界にいきなり召喚された最初の長い一日からずっとそばにいてくれるストーリアなんだろうとカイトはあらためて思った。「カイト様……? どうかなさいましたか?」 少し感慨にひたる間を置いたカイトに、ストーリアが小首を傾げてみせる。「あ、いや。ストーリアはいつでも、俺が欲しい言葉をくれるなって思っただけだよ」 カイトの返答を聞いたストーリアは、荷造りのためにかがんでいた姿勢から立ち上がるとカイトをまっすぐに見つめた。「カイト様……ひとつだけ、約束していただけませんか?」「俺にできる約束なら……」 ストーリアがゆっくりとカイトのそばに寄り、その胸に自身の頭を寄せる。 カイトの心音を確認するように短い間を置いたストーリアは、頬を寄せるカイトにだけ届く声でお願いを伝えた。「必ず
翌日の昼過ぎに、聖皇の指名を受けたカイトが執行人としての渡航に同行するメンバーを探していると聞き及んだピリカが、王宮内にあるカイトの執務室を訪れた。 書類仕事を中断して応対したカイトに促されてソファに腰掛けたピリカは、向かいに座ったカイトをまっすぐに見つめて用件を口にした。「カイト卿。今回の指名を受けて、執行人として赴く卿と同行する魔道士に、あたしを加えてください。この機会をあたしは待っていたんです」 前置きを省いて本題から入ったピリカに対し、カイトはまずその動機を確認するための質問を返した。「危険を伴う任務に立候補していただき、ありがとうございます。ピリカ卿、ひとつだけ訊いてもいいでしょうか? 危険な任務の機会を「待っていた」という理由は何ですか?」「あたしは魔道士としてトワゾンドール魔道士団に席をいただき、ミズガルズ王国の男爵位もいただきました。ですが、侯爵領となったヌプリの先住民族をルーツとする出自は、決して変わるものではありません。あたしの親や親族に向けられる視線を変えるために、あたしは活躍して功をあげなくてはならない。それが理由です」 ピリカの碧い瞳に強い決意が宿っているのを感じ取ったカイトは、首肯を返してから答えた。「分かりました。今回の渡航への同行をピリカ卿にお願いします」「ありがとうございます」「いえ、礼を言うのは俺のほうです。おかげで初めての任務を受ける俺にとって最大の不安材料がなくなりました」 そう言って頭を下げるカイトを見たピリカが微笑む。「カイト卿。あたしも、ひとつ訊いてもいいですか?」「ええ、どうぞ」「親しい関係になった女性は、もういますか?」「えっ!?」 ピリカの唐突な問いに動揺したカイトの声が裏返る。同時にカイトの脳裏にはストーリアの顔が浮かんだ。「あたしでよろしければ、そちらにも立候補してよろしいですか?」「えー……と、とても魅力的な提案なんですが……」「答えは急ぎませんので、いまは立候補だけ受け取ってください。気長に待ってます」 ピリカの微笑みには裏に含んだ後ろめたさがなく、魅力的な女性だとカイトは率直に思った。 その日のうちに、カイトは聖皇の使者であるヴェネーノが滞在するホテルに赴いた。 ヴェネーノが宿泊する客室に直接通されたカイトは、すすめられるままソファに腰掛けると用件から口にした